すかるのBlog

好きなケインはコスギです

不老不死の不幸せ

それが明日なのか、或いは100年後なのかは定めないけれど
いつの日か不老不死になれる魔法のような薬が開発されたとする。
きっとそんな薬、一部の上流階級もしくは一国の主クラスのほんの一握りしか手に入れられない。
目ん玉飛び出るぐらいの高額な代物になるんだろうなってのは分かってる。
けどもしも、もしも庶民一般、大衆でも手に入るような、そんな世界線を考えてみたい。

当然老いる事が無いから、基本的に人は死なない。老衰の概念が無い。
死ぬ事があるとすれば老化以外を起因とした疾患或いは事故等の怪我ぐらい。圧倒的に人間の寿命は延びる。
平均で500歳とか600歳とかになっちゃうのかな。分からん、或いは2,000歳の長寿が存在したっておかしくない。
けれどいい事ばかりではなく、人が死なないのに子供を産んでいったら地球はパンクしてしまう。
一人っ子政策を行う前の中国のような事が世界中で起きるイメージ。
土地が足りず、森林を無秩序に伐採していけば環境破壊は進むし、それは埋立地を増やすのも同義。
はたまた巨大地下シェルターや火星への移住なんて案が出るかもしれないが、それはまた別の話。一度置いておく。
私たちの地球は人口増加を受け入れるだけの土地が足りなくなり、人口増を食い止めるべく、きっとこんなルールが全世界的に敷かれるだろう。
同一世帯が死亡した場合に限り出産を認める、もしくは出生1人につき同一世帯1人を安楽死させること─
これはとてつもない恐怖。

人が死んでしまうことに理由なんてなく、それが寿命であれ奇病であれ、或いは不慮の事故であれすべて一緒。
某かの尤もらしい理由を付け、故人の死を悼み、涙を流す。不謹慎な事を覚悟のうえ例えるなら、ある種の様式美。
故人が旅立ってから間もなく、人々は一堂に会し、一様に喪服に袖を通す。このしきたりはある意味で美しい。
一部例外を除き、人為的ではない人の死を受け入れようと心を痛めるところまでを含んで、人の死は存在する。
一方で不老不死の世界では、人の命が宿ることとは、誰かひとりとお別れをするということ。なんとも恐ろしいこと。
あなたの娘に子供が出来た。待望の孫だ。と同時に自分もしくは配偶者が殺されなければならない、そんな未来を受け入れられるだろうか。

違った切り口から考察する。
人がなかなか死なない、子供を産むことにも高いハードルがある、ならば生きている人間は厳選する風潮になりやしないか。
無能な人間から順に安楽死させる。或いは暗殺だって起きるかもしれない。そうして知能指数の高いもの、容姿の端麗なもの、
その他無二の能力を持っているものだけが生かされる世界。これも怖い。
人々は生きることに必死になる。今日の受験戦争?甘い甘い。この場合の受験は文字通りの戦争であり、受験失敗は即ち死を意味する。
当然にFラン大学なんて淘汰されるし、そんな世界に於いては早稲田大学卒業程度では落ちこぼれなのかもしれない。

このように考えると、死ぬという事には何らかの意味があるのではないかとも思える。
ただただ1日1日を漠然と生きるのではなく、今日とは違う明日を見つけに行く旅こそが、生きるという意味なのかもしれない。
死という恐怖を、素敵なイベントだと思えるように。